東洲斎写楽
みなさんこんにちは。
お腹空きすぎて気分悪くなったりお腹痛くなることってありませんか??
ちょうどその現象に陥ってる私です。。
お腹空きすぎてすごい気持ち悪い笑
さて、そんなことはさておき、今回は私が一番好きな浮世絵作家である東洲斎写楽についてです。
謎の多い東洲斎写楽ですが、掘り下げていきます。
まず、東洲斎写楽と言えばこの作品を思い出す方も多いはず。
これは三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛という作品です。
写楽はこの作品に代表されるようにその当時流行っていた役者の大首絵を多く残しており、その大胆にデフォルメされた画風が特徴です。
私も感覚的な事にはなりますが、これらの写楽特有のタッチに何か心惹かれるんですよねぇ。
他に有名な作品といえば、
これは市川鰕蔵の竹村定之進という作品で
その名の通り市川鰕蔵(えびぞう)が描かれています。
この市川鰕蔵は3代目の市川鰕蔵で、現在の市川海老蔵さんが11代目になります。
この人物は襲名の過程で3代目松本幸四郎や5代目市川団十郎も襲名しているので、現在皆さんがご存知の10代目松本幸四郎(元染五郎さん)や、先代である松たか子のお父さんの現松本白鸚よりかなり先代の松本幸四郎でもありました。
写楽は謎の多い人物で未だに正体が明らかになっていません。
寛政6年(1794年)の5月から翌1月(寛政6年には閏11月あり)の10ヶ月の間にフラッと現れて145点余の作品を残し、姿を消しています。
その中でも前半6ヶ月程度の間に製作された作品と後期の作品ではあまりにもの出来の違い(後半が粗悪)から前後期で別人説があったり、10ヶ月の間での作品数の多さから複数人で作成されていた説、また当時有名だった喜多川歌麿や葛飾北斎などを写楽の正体とする説まで色んな憶測が飛び交いました。
現在では、その正体の最有力候補として、阿波徳島藩主蜂須賀家のお抱えの能役者であった斎藤十郎兵衛であると言う説が最有力候補で根拠もこの説が一番しっかりしています。
みなさんも写楽について詳しく知りたくなってきました?笑